京都徒然日記

京都の大学生。本と映画と星空と…

【読書感想】安田陽介「大文字山を食べるー山菜・キノコ採集記ー」—我採集す。ゆえに我あり。

テスト前で暇なので、生協やAmazonで本を買いあさっては読んでいます。テスト前だから暇というよりも、テストがなくてレポートばかりだから暇ということですね。

レポートの題材探しをかねて生協でふらふらしていたら、この本を置いていたので手に取ってみました。5月頃からよく店頭に見る気がします。街へでても京都本コーナーによく並べてあるのを見かける。

大文字山を食べる―山菜・キノコ採集記

大文字山を食べる―山菜・キノコ採集記

 

 著者紹介を見ると京大文学部出身らしい。なるほどね。生協は、卒業生と教授の本は積極的に売っていく方針らしいです。

 

あらすじなど

小さい頃から山菜やキノコに馴染みがあった筆者が、京都の銀閣寺裏の大文字山で様々な山菜やキノコを取っては食うエッセイ。煮たり焼いたり漬けたり、料理法は様々。山菜としては定番のワラビやゼンマイ、アケビなどから種々のキノコまで。筆者の採集記のなかの哲学も必見。古典や論文を引用することも多く、まめ知識も豊富。この2016年に出されたものは、2007年に新風社から出版されたものに修正加筆を加えて、コトコトが復刊させたもの。

 

食べちゃいたいほど好きなのだもの

森見登美彦有頂天家族」より、弁天様の台詞を引用させていただきました。好きだったら食べてしまいたいというのは当然の帰結らしいです。性欲は食欲と関連しているとか、セックスの示す一体化=食べ物を取り込むこと、と捉えるのもあながち間違いでもないかもしれない。

何がいいたいかと言うと、筆者の安田さん曰く、「山が好きだから食べる」のだ。それが哲学。あとは好奇心と本能。なので、とりあえず口にいれてみてヤバそうだったら食べない、いけそうなら食べるという非常に原始的な方法で食べられそうかどうかを判断していらっしゃいます。

春から書架にかけての萌え出づる新芽や若葉は無性に口に入れたくなる。それが食べられる植物かどうか、そんな知識や理性的判断の入り込む隙もなく、ただ衝動的に食欲をそそられて食べたくなる。縄文人だって同じだったはずだ。わたしの内なる血とDNAがその証拠だ。”食べてみたい”という欲求、新鮮な食欲は好奇心の最たるものだ。好奇心と冒険心こそ、人間の進歩の原動力なのだ。

まあ、とはいえ、ちゃんと図鑑は見ましょうと書いてありました。それはそう。

 

商品経済批判のはなし

 いわゆるネオ清貧主義みたいな人たちによく見られがちだとおもう、商品経済・大量消費社会への批判。しかし、雑誌「リンネル」とかにありそうな、上質な品々に囲まれ、ゆとりのある時間をもつ、自然と上手く付き合っていきていく、持ち物は最低限(この辺はミニマリストの精神と共通ですね)という暮らしをしていくにはどれだけのお金がいるのだろうと思います。

例えば朝だけでも、「1枚の布で雑巾がけをする」「朝ご飯は味噌汁・白米・一品」「まげわっぱのお弁当」なんて、当然共働き家庭では無理なこと。朝何時に起きればええねん、となってしまいます。

 で、話を戻して、「大文字山を食べる」の商品経済や大量消費社会批判について。

七草だからって、定型化した”正統的”七草ばかり食べるのではなく、楽しみながら自分でアレンジして気に入った野草を粥に入れたらいいと思う。それこそ、本来のあるべき「七草粥」のはずだ。道端に生えている野草を摘んできて食べるなど、七草のセットをスーパーで買ってくる一般の人たちには思いもよらぬことだろう。けれど、決められた道ばかり歩くのでなく、もうちょっと「道草」を食ったらどうですか?

 私は最初見たとき「煽りかな??」と思ったんですけれど(最後疑問系だし)、文章が一貫してこんなかんじなので煽りではないです。たぶん。

 

 深夜まで残業がある人が、道草を食うだろうか。一刻も早く家に帰ってベッドにダイブしたい人がわざわざ七草粥に合いそうな野草を摘んでくるだろうか。明日のご飯代をバイトで稼いでる人が、道に生えている草を摘んでアレンジして食べようとか思うだろうか。そういうことを考えるとき、上で書いたネオ清貧主義はある程度時間と金に余裕がある人しかできないことなのだろうと思うのと同様に、こういった商品経済・大量消費社会に対する批判をするのもまた、時間と金を持つ人なんだろうなあと思います。こういう批判は選ばれしものしかできないような気がして、私は少し苦手です。